「備中松山城」に関するクイズを3択形式で27問ご用意しました。
各問の後に「答え」と「解説」を付けています。ぜひお楽しみください。
1. 備中松山城の前身となる砦を最初に築いたとされる人物は誰でしょうか?
- 秋庭重信(あきば しげのぶ)
- 三村元親(みむら もとちか)
- 毛利輝元(もうり てるもと)
答え:1. 秋庭重信
解説:
鎌倉時代の1240年頃、地頭として備中国有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)に赴任した秋庭重信が、臥牛山(がぎゅうざん)の大松山に砦を築いたのが始まりとされています。
解説:
鎌倉時代の1240年頃、地頭として備中国有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)に赴任した秋庭重信が、臥牛山(がぎゅうざん)の大松山に砦を築いたのが始まりとされています。
2. 備中松山城のある臥牛山は、標高がどれくらいでしょうか?
- 約100m
- 約430m
- 約800m
答え:2. 約430m
解説:
臥牛山の山頂付近(標高430m)に、江戸時代に建造された天守が残っています。現存十二天守のなかで最も高い場所にあるのがこの備中松山城です。
解説:
臥牛山の山頂付近(標高430m)に、江戸時代に建造された天守が残っています。現存十二天守のなかで最も高い場所にあるのがこの備中松山城です。
3. 備中松山城が「日本一高い山城」と呼ばれる主な理由はどれでしょうか?
- 天守の高さが日本一だから
- 現存天守がある山城の中で最も標高が高いから
- 石垣の高さが100mを超えているから
答え:2. 現存天守がある山城の中で最も標高が高いから
解説:
標高430mの場所に現存天守があるのは備中松山城だけで、山城としては「日本一高所にある現存天守」として知られています。
解説:
標高430mの場所に現存天守があるのは備中松山城だけで、山城としては「日本一高所にある現存天守」として知られています。
4. 備中松山城から天守までは、ふいご峠の駐車場から徒歩でどれくらいかかるでしょうか?
- 5分程度
- 20分程度
- 1時間以上
答え:2. 20分程度
解説:
ふいご峠駐車場から本丸付近まで、山道を登って約20分ほどかかります。滑りやすい場所もあるため、歩きやすい靴での登城がおすすめです。
解説:
ふいご峠駐車場から本丸付近まで、山道を登って約20分ほどかかります。滑りやすい場所もあるため、歩きやすい靴での登城がおすすめです。
5. 戦国時代、備中松山城を落とした毛利軍は、どのような手段で攻略したと言われているでしょうか?
- 大火を放って焼き払った
- 兵糧攻めで徹底的に追い詰めた
- 内通者を利用して門を開けさせた
答え:2. 兵糧攻めで徹底的に追い詰めた
解説:
当時、備中松山城を拠点としていた三村氏(さんむらし)に対し、毛利軍は8万の大軍で包囲し、兵糧攻めを行ったと伝えられています。最終的に城は落城し、三村元親は自害しました。
解説:
当時、備中松山城を拠点としていた三村氏(さんむらし)に対し、毛利軍は8万の大軍で包囲し、兵糧攻めを行ったと伝えられています。最終的に城は落城し、三村元親は自害しました。
6. 備中松山城が現存12天守のうち、唯一持つ特徴は何でしょうか?
- 天守が5重の層塔式である
- 山城(やまじろ)である
- 明治時代に国宝に指定された唯一の城
答え:2. 山城(やまじろ)である
解説:
現存12天守の中で、山頂(標高430m)に天守が残る山城は備中松山城だけです。ほかは平城や平山城と呼ばれる形態です。
解説:
現存12天守の中で、山頂(標高430m)に天守が残る山城は備中松山城だけです。ほかは平城や平山城と呼ばれる形態です。
7. 備中松山城の天守は建物の高さこそ低めですが、石垣上にそびえるため実際より大きく見えます。その高さはおよそどれくらいでしょうか?
- 約8m
- 約11m
- 約15m
答え:2. 約11m
解説:
備中松山城の天守自体は2重2階、約11mほどの高さです。ただし標高430mの石垣上に建っているため、実際は迫力ある姿に見えます。
解説:
備中松山城の天守自体は2重2階、約11mほどの高さです。ただし標高430mの石垣上に建っているため、実際は迫力ある姿に見えます。
8. 備中松山城が秋から冬にかけて「天空の城」とも呼ばれる理由は何でしょうか?
- 城周辺に雲海が発生し、天守が雲海に浮かんで見えるから
- 極めて高い天守閣を持つから
- 毎年秋に熱気球の祭典が開かれるから
答え:1. 城周辺に雲海が発生し、天守が雲海に浮かんで見えるから
解説:
秋~冬の早朝、天候条件が揃うと、臥牛山周辺に雲海ができて天守だけが雲の上に浮かぶように見えます。その幻想的な光景が「天空の山城」として人気を呼んでいます。
解説:
秋~冬の早朝、天候条件が揃うと、臥牛山周辺に雲海ができて天守だけが雲の上に浮かぶように見えます。その幻想的な光景が「天空の山城」として人気を呼んでいます。
9. 備中松山城には可愛らしい「猫城主」がいることでも知られていますが、この猫に会える可能性が高いとされる時間帯はいつでしょうか?
- 早朝5時ごろ
- 10時と14時ごろ
- 夜間ライトアップの時間帯
答え:2. 10時と14時ごろ
解説:
城内を見回りする時間帯がだいたい決まっており、10時と14時頃に城内を歩く姿が見られることが多いようです。ただし必ず会えるわけではありません。
解説:
城内を見回りする時間帯がだいたい決まっており、10時と14時頃に城内を歩く姿が見られることが多いようです。ただし必ず会えるわけではありません。
10. 備中松山城の中でも、かつて水谷家が3年がかりで大改修を行い、現在の姿をほぼ完成させたとされる時代はいつでしょうか?
- 天和年間(1681~1684年)
- 慶長年間(1596~1615年)
- 元禄年間(1688~1704年)
答え:1. 天和年間(1681~1684年)
解説:
2代城主・水谷勝宗が大規模改修を行い、備中松山城は近世城郭としての姿に整えられました。山城のまま近世まで機能した稀有な例です。
解説:
2代城主・水谷勝宗が大規模改修を行い、備中松山城は近世城郭としての姿に整えられました。山城のまま近世まで機能した稀有な例です。
11. 備中松山城が廃城令の際、ほとんど取り壊されずに残った大きな理由は何でしょうか?
- 山頂の城が不便すぎて買い手がつかなかったから
- 早くから国宝に指定されていたから
- 藩主が明治政府に強く抵抗して守り抜いたから
答え:1. 山頂の城が不便すぎて買い手がつかなかったから
解説:
明治6年(1873年)の廃城令後、山上の建物はわずか7円(現代の価値で数万円程度)で売却されましたが、実際に解体して運ぶのが困難だったため放置され、結果的に天守が残りました。
解説:
明治6年(1873年)の廃城令後、山上の建物はわずか7円(現代の価値で数万円程度)で売却されましたが、実際に解体して運ぶのが困難だったため放置され、結果的に天守が残りました。
12. 備中松山城が立地する「臥牛山」は、山頂以外にいくつかの峰を持ちますが、どれが含まれるでしょうか?
- 小松山・大松山・天神の丸・前山
- 天守山・本山・小松山・牛首山
- 猫山・虎山・鷲山・兜山
答え:1. 小松山・大松山・天神の丸・前山
解説:
臥牛山は4つの峰からなり、戦国時代にはこれら全域にわたって城郭が築かれました。現在の天守は小松山に位置します。
解説:
臥牛山は4つの峰からなり、戦国時代にはこれら全域にわたって城郭が築かれました。現在の天守は小松山に位置します。
13. 備中松山城では、近世において山麓に藩主の居館を置いて政務を執っていました。この居館はなんと呼ばれていたでしょうか?
- 御根小屋(おねごや)
- 御社壇(ごしゃだん)
- 御番所(ごばんしょ)
答え:1. 御根小屋(おねごや)
解説:
山頂での生活は不便だったため、江戸期には麓に「御根小屋」と呼ばれる御殿を設け、そこを中心に行政や藩の政務が行われました。
解説:
山頂での生活は不便だったため、江戸期には麓に「御根小屋」と呼ばれる御殿を設け、そこを中心に行政や藩の政務が行われました。
14. 備中松山城は戦国期にたびたび攻防が繰り広げられましたが、三村元親が毛利氏と対立して勃発した一連の争いを何と呼ぶでしょうか?
- 明善寺合戦
- 備中兵乱
- 常山女軍の戦い
答え:2. 備中兵乱
解説:
三村元親が織田側へ通じて毛利家に反旗を翻した結果、毛利・宇喜多連合軍と大きな戦いになったのが「備中兵乱」です。最終的に元親は城を追われ、自害しました。
解説:
三村元親が織田側へ通じて毛利家に反旗を翻した結果、毛利・宇喜多連合軍と大きな戦いになったのが「備中兵乱」です。最終的に元親は城を追われ、自害しました。
15. 備中松山城の石垣などに使われている積み方には、複数の種類が混在しています。特に江戸時代の改修で取り入れられた加工度の高い石積みは何と呼ばれるでしょうか?
- 野面積み(のづらづみ)
- 打込接ぎ(うちこみはぎ)
- 切込接ぎ(きりこみはぎ)
答え:3. 切込接ぎ
解説:
戦国期の野面積みに比べ、江戸時代以降は切込接ぎの技術が取り入れられ、整然とした石垣が築かれるようになりました。備中松山城では両方の様式が混在して残っています。
解説:
戦国期の野面積みに比べ、江戸時代以降は切込接ぎの技術が取り入れられ、整然とした石垣が築かれるようになりました。備中松山城では両方の様式が混在して残っています。
16. 江戸時代に備中松山城を治めた大名家のうち、最終的に明治維新まで城主を務めたのは次のうちどれでしょうか?
- 水谷家(みずのやけ)
- 石川家(いしかわけ)
- 板倉家(いたくらけ)
答え:3. 板倉家
解説:
水谷家・安藤家・石川家などが相次いで入城する中、最終的に明治維新まで約130年にわたり城主を務めたのは板倉家でした。
解説:
水谷家・安藤家・石川家などが相次いで入城する中、最終的に明治維新まで約130年にわたり城主を務めたのは板倉家でした。
17. 備中松山城の建物のうち、国の重要文化財に指定されているものとして正しい組み合わせはどれでしょうか?
- 天守、二重櫓、三の平櫓東土塀
- 大手門、天守、番所跡
- 天守のみ
答え:1. 天守、二重櫓、三の平櫓東土塀
解説:
昭和16年(1941年)に旧国宝(現・重要文化財)に指定され、現在でも天守・二重櫓・三の平櫓東土塀の3棟が貴重な文化財として保護されています。
解説:
昭和16年(1941年)に旧国宝(現・重要文化財)に指定され、現在でも天守・二重櫓・三の平櫓東土塀の3棟が貴重な文化財として保護されています。
18. 備中松山城の天守は、構造としてどのような形式に分類されることが多いでしょうか?
- 連立式天守
- 複合式望楼型天守
- 層塔式天守
答え:2. 複合式望楼型天守
解説:
2重2階+付櫓(廊下)がついた「複合式望楼型天守」とされています。外部から見ると2重に見えますが、内部には付櫓部分が半地下のように設けられています。
解説:
2重2階+付櫓(廊下)がついた「複合式望楼型天守」とされています。外部から見ると2重に見えますが、内部には付櫓部分が半地下のように設けられています。
19. 備中松山城の天守には、かつて「調理や暖房のため」として作られた設備がありました。それは何でしょうか?
- 蒸し風呂
- 長囲炉裏(ながいろり)
- 薪を貯蔵する大倉庫
答え:2. 長囲炉裏
解説:
1階に細長い囲炉裏が掘られていますが、実際には城内で火を使うのは危険なため、ほとんど使われなかったといわれています。
解説:
1階に細長い囲炉裏が掘られていますが、実際には城内で火を使うのは危険なため、ほとんど使われなかったといわれています。
20. 備中松山城の天守2階に祀られていたとされる神々を総称して何と呼ぶでしょうか?
- 八幡神(はちまんしん)
- 御社壇(ごしゃだん)
- 五穀神(ごこくしん)
答え:2. 御社壇(ごしゃだん)
解説:
天守2階には複数の神を祀る舞良戸で仕切られた一角があり、「御社壇」と呼ばれました。城主や藩が戦勝や国の平穏を祈願した場所と考えられています。
解説:
天守2階には複数の神を祀る舞良戸で仕切られた一角があり、「御社壇」と呼ばれました。城主や藩が戦勝や国の平穏を祈願した場所と考えられています。
21. 備中松山城には、戦国期~江戸期にかけてさまざまな城主がいました。次のうち、毛利氏と対立して落城した城主として正しいのは誰でしょうか?
- 三村元親(みむら もとちか)
- 宇喜多直家(うきた なおいえ)
- 織田信長(おだ のぶなが)
答え:1. 三村元親
解説:
三村元親はもともと毛利氏に従っていましたが、後に織田信長と結んで毛利氏に反旗を翻しました。最終的には毛利方の小早川隆景に備中松山城を攻め落とされ、自害しました。
解説:
三村元親はもともと毛利氏に従っていましたが、後に織田信長と結んで毛利氏に反旗を翻しました。最終的には毛利方の小早川隆景に備中松山城を攻め落とされ、自害しました。
22. 備中松山城が「難攻不落」と言われる大きな理由の一つは何でしょうか?
- 山頂までモノレール以外で行けない立地のため
- 山全体に石垣を巡らせ、大規模な曲輪群があったため
- 海沿いの崖上に築かれ、船でしか近づけなかったため
答え:2. 山全体に石垣を巡らせ、大規模な曲輪群があったため
解説:
臥牛山の大松山・天神の丸・小松山などにまたがる大要塞となっており、至る所に石垣や堀切が設けられています。自然の険しさを最大限に活かした構造が「難攻不落」と評されました。
解説:
臥牛山の大松山・天神の丸・小松山などにまたがる大要塞となっており、至る所に石垣や堀切が設けられています。自然の険しさを最大限に活かした構造が「難攻不落」と評されました。
23. 備中松山城の登山道にある「腰掛石(こしかけいし)」は、ある歴史上の人物がここで腰を下ろしたと伝わります。その人物は誰でしょうか?
- 大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
- 真田幸村(さなだ ゆきむら)
- 大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)
答え:1. 大石内蔵助
解説:
「忠臣蔵」で名高い大石内蔵助が備中松山城の領地問題で訪れた際、ここで休憩しながら思案したとする言い伝えがあります。
解説:
「忠臣蔵」で名高い大石内蔵助が備中松山城の領地問題で訪れた際、ここで休憩しながら思案したとする言い伝えがあります。
24. 備中松山城が「日本三大山城」の一つともいわれる理由は、他に高取城(奈良県)ともう1つの山城と合わせて数えられるためです。残る1つはどれでしょうか?
- 彦根城(ひこねじょう)
- 岩村城(いわむらじょう)
- 高知城(こうちじょう)
答え:2. 岩村城(いわむらじょう)
解説:
「日本三大山城」は諸説ありますが、一般的には備中松山城、高取城(奈良県)、岩村城(岐阜県)が挙げられます。
解説:
「日本三大山城」は諸説ありますが、一般的には備中松山城、高取城(奈良県)、岩村城(岐阜県)が挙げられます。
25. 備中松山城の城下町は、現在も風情ある武家屋敷が残り観光スポットとして知られていますが、ここに藩主の館があった場所をなんと呼びますか?
- 武家坂(ぶけざか)
- 御根小屋跡(おねごやあと)
- 路地門跡(ろじもんあと)
答え:2. 御根小屋跡
解説:
山麓に設けられた藩主の御殿(政庁)があった場所は「御根小屋跡」と呼ばれ、現在は高梁高等学校の敷地になっています。
解説:
山麓に設けられた藩主の御殿(政庁)があった場所は「御根小屋跡」と呼ばれ、現在は高梁高等学校の敷地になっています。
26. 備中松山城のある高梁市では、秋になると山々が紅葉し、城周辺は鮮やかな光景に包まれます。特に紅葉が美しく映える場所として人気のスポットはどこでしょうか?
- 大手門付近
- 天守内部
- 天神の丸最上部
答え:1. 大手門付近
解説:
大手門跡付近から見上げる切り立った岩壁と紅葉のコントラストが圧巻です。紅葉シーズンには多くの観光客が訪れます。
解説:
大手門跡付近から見上げる切り立った岩壁と紅葉のコントラストが圧巻です。紅葉シーズンには多くの観光客が訪れます。
27. 江戸時代初期に幕府が直轄地や旗本支配の地域を多く設けたため、備中松山藩の石高はどれくらいだったと伝えられているでしょうか?
- 1万石ほど
- 6万石ほど
- 20万石ほど
答え:2. 6万石ほど
解説:
備中松山藩は幕府直轄地などが周辺にあり、小藩に細分化されやすい地域だったため、石高は約6万石でした。
解説:
備中松山藩は幕府直轄地などが周辺にあり、小藩に細分化されやすい地域だったため、石高は約6万石でした。
まとめ
「難攻不落の城」「天空の山城」として名高い備中松山城ですが、鎌倉時代から戦国時代、そして江戸時代に至るまで、数多くの歴史ドラマを秘めています。
また、秋冬に見られる雲海や、城下町の風情もあわせてぜひ味わってみてください。