「熊本城」に関する3択クイズを26問ご用意しました。
それぞれの問題の後に「答え」と「解説」を付けています。ぜひお楽しみください。
1. 熊本城を築城したのは誰でしょうか?
- 豊臣秀吉
- 加藤清正
- 徳川家康
答え:2. 加藤清正
解説: 戦国武将の加藤清正(かとうきよまさ)が、元々あった隈本城・千葉城などを改修し、1601年から約7年をかけて熊本城を築きました。慶長12(1607)年頃にはおおむね完成したといわれています。
解説: 戦国武将の加藤清正(かとうきよまさ)が、元々あった隈本城・千葉城などを改修し、1601年から約7年をかけて熊本城を築きました。慶長12(1607)年頃にはおおむね完成したといわれています。
2. 熊本城が別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」と呼ばれる理由は何でしょうか?
- 銀杏の木を櫓(やぐら)として利用していたから
- 城内に加藤清正が植えたと伝わる銀杏の木があるから
- 屋根が銀色に輝くため
答え:2. 城内に加藤清正が植えたと伝わる銀杏の木があるから
解説: 熊本城には樹齢数百年とされる大銀杏の木があり、それが「銀杏城」の由来です。籠城時の食料にしようと植えられたという伝承もあります(ただし雄木で実はならず、俗説とも言われます)。
解説: 熊本城には樹齢数百年とされる大銀杏の木があり、それが「銀杏城」の由来です。籠城時の食料にしようと植えられたという伝承もあります(ただし雄木で実はならず、俗説とも言われます)。
3. 熊本城が「攻めにくい城」といわれる大きな理由の一つは何でしょうか?
- 海上要塞のように海に囲まれているから
- 「武者返し」と呼ばれる反り返った高い石垣があるから
- 山全体に巨大な空堀がないから
答え:2. 「武者返し」と呼ばれる反り返った高い石垣があるから
解説: 「清正流石垣」「武者返し」と呼ばれる石垣は下部がゆるやか、上部ほど急角度になり、よじ登りにくく設計されています。西南戦争でも難攻不落の堅城ぶりを示しました。
解説: 「清正流石垣」「武者返し」と呼ばれる石垣は下部がゆるやか、上部ほど急角度になり、よじ登りにくく設計されています。西南戦争でも難攻不落の堅城ぶりを示しました。
4. 熊本城の石垣が反りを持つ「武者返し」として有名ですが、この建築技術はどこでの経験が活かされたと言われるでしょうか?
- 加藤清正が朝鮮出兵で蔚山倭城を築いた経験
- 織田信長が安土城を築いた経験
- 徳川家康が江戸城を築いた経験
答え:1. 加藤清正が朝鮮出兵で蔚山倭城を築いた経験
解説: 清正は文禄・慶長の役で朝鮮各地に築いた倭城(わじょう)の経験を熊本城に活かしました。特に蔚山城の籠城から得た教訓で、反り返った高石垣を採用したと言われています。
解説: 清正は文禄・慶長の役で朝鮮各地に築いた倭城(わじょう)の経験を熊本城に活かしました。特に蔚山城の籠城から得た教訓で、反り返った高石垣を採用したと言われています。
5. 熊本城の「天守」が焼失したのはいつでしょうか?
- 落雷による江戸時代初期
- 1877年(明治10年)の西南戦争前
- 1945年の熊本大空襲
答え:2. 1877年(明治10年)の西南戦争前
解説: 西郷軍の総攻撃直前で、原因不明の火災により大小天守と本丸御殿が焼失。城の堅固さを示したものの、天守を失った状態で戦いを迎えました。
解説: 西郷軍の総攻撃直前で、原因不明の火災により大小天守と本丸御殿が焼失。城の堅固さを示したものの、天守を失った状態で戦いを迎えました。
6. 熊本城が別名「銀杏城」と呼ばれるもう一つの理由として、加藤清正が言い残したとされる逸話は何でしょうか?
- 「銀杏と城の高さが並んだら兵乱が起こる」と言った
- 「銀杏が倒れたら熊本藩は滅びる」と言った
- 「銀杏は金鯱の代わりだ」と言った
答え:1. 「銀杏と城の高さが並んだら兵乱が起こる」と言った
解説: 伝承では、大銀杏が天守の高さに並んだ時に兵乱が起こると予言されました。明治10年の西南戦争直前に確かに大木が天守の高さと同じぐらいになっていたとも言われます(ただし俗説です)。
解説: 伝承では、大銀杏が天守の高さに並んだ時に兵乱が起こると予言されました。明治10年の西南戦争直前に確かに大木が天守の高さと同じぐらいになっていたとも言われます(ただし俗説です)。
7. 熊本城の建築様式は何城に分類されるでしょうか?
- 完全な平城
- 完全な山城
- 平山城(梯郭式)
答え:3. 平山城(梯郭式)
解説: 熊本城は茶臼山という舌状台地を活用し、梯郭式(曲輪を段階的に配置)で築かれました。山裾や低地まで広がるため平山城に分類されます。
解説: 熊本城は茶臼山という舌状台地を活用し、梯郭式(曲輪を段階的に配置)で築かれました。山裾や低地まで広がるため平山城に分類されます。
8. 熊本城が江戸時代を通じて所属した藩はどこでしょうか?
- 長州藩
- 肥後藩(熊本藩)
- 薩摩藩
答え:2. 肥後藩(熊本藩)
解説: 加藤家2代の後、1632年から明治維新までは細川家が治める熊本藩の居城として存続しました。
解説: 加藤家2代の後、1632年から明治維新までは細川家が治める熊本藩の居城として存続しました。
9. 熊本城に見られる「地下通路(穴蔵)」はどんな役割があるでしょうか?
- 天守へ至る通路を複雑化し、敵が入りにくい構造
- 金銀財宝の保管庫
- 熊本市街への抜け道
答え:1. 天守へ至る通路を複雑化し、敵が入りにくい構造
解説: 本丸御殿の下に穴蔵のような空間があり、そこを通らないと天守へ行けないという複雑なつくりです。籠城時の防御力を高めています。
解説: 本丸御殿の下に穴蔵のような空間があり、そこを通らないと天守へ行けないという複雑なつくりです。籠城時の防御力を高めています。
10. 西南戦争(1877年)で薩軍が熊本城を落とせなかったのはなぜでしょうか?
- 天災により薩軍が撤退した
- 城内に大量の備蓄があり、防御が堅固だった
- 城主が薩軍と内通していたから
答え:2. 城内に大量の備蓄があり、防御が堅固だった
解説: 水源確保のための多くの井戸、食糧庫、複雑な構造の石垣や櫓があり、わずかな兵数でも薩軍の大軍を寄せ付けませんでした。
解説: 水源確保のための多くの井戸、食糧庫、複雑な構造の石垣や櫓があり、わずかな兵数でも薩軍の大軍を寄せ付けませんでした。
11. 熊本城の石垣の大きな特徴である「扇の勾配」「武者返し」は、主にどのような目的で造られたでしょうか?
- 城を美しく見せるための装飾
- 登りづらくし、敵の侵入を阻むため
- 通気性をよくするため
答え:2. 登りづらくし、敵の侵入を阻むため
解説: 下部はゆるやか、上部ほど急になる石垣はスムーズに登りにくく攻め手を阻みます。これが「武者返し」の由来です。
解説: 下部はゆるやか、上部ほど急になる石垣はスムーズに登りにくく攻め手を阻みます。これが「武者返し」の由来です。
12. 西南戦争時、火災で焼失しなかった主要な建物として現存するのは何でしょうか?
- 宇土櫓(うとやぐら)
- 大天守
- 本丸御殿
答え:1. 宇土櫓(うとやぐら)
解説: 西南戦争直前の火災で天守や本丸御殿は焼失しましたが、宇土櫓など13棟が奇跡的に焼け残り、国の重要文化財に指定されています。
解説: 西南戦争直前の火災で天守や本丸御殿は焼失しましたが、宇土櫓など13棟が奇跡的に焼け残り、国の重要文化財に指定されています。
13. 再建された熊本城天守閣の内部はどのように利用されていたでしょうか?
- 立ち入り禁止の軍事施設
- 資料展示を中心とした観光・博物館的施設
- 議会議事堂として活用
答え:2. 資料展示を中心とした観光・博物館的施設
解説: 1960年に再建された天守閣は内部が展示空間や展望フロアとなり、熊本市立熊本博物館分館として機能していました。熊本地震後は被災のため非公開です。
解説: 1960年に再建された天守閣は内部が展示空間や展望フロアとなり、熊本市立熊本博物館分館として機能していました。熊本地震後は被災のため非公開です。
14. 熊本城の「宇土櫓」が別名「第三の天守」とも呼ばれる理由は何でしょうか?
- 完全に独立した大型天守閣だから
- 規模が他城の天守並みに大きい三重五階櫓だから
- 武者人形が飾られているから
答え:2. 規模が他城の天守並みに大きい三重五階櫓だから
解説: 宇土櫓は3重5階地下1階で、他城の天守の規模にも匹敵します。西南戦争の火災を免れ、貴重な江戸期の姿を残す建造物です。
解説: 宇土櫓は3重5階地下1階で、他城の天守の規模にも匹敵します。西南戦争の火災を免れ、貴重な江戸期の姿を残す建造物です。
15. 熊本城の天守閣が建てられた茶臼山(ちゃうすやま)は、地盤がどういう特徴を持っているでしょうか?
- 花崗岩の硬い岩盤
- 阿蘇山由来の火山灰から成る脆弱な地盤
- 沖積層の軟弱な海泥
答え:2. 阿蘇山由来の火山灰から成る脆弱な地盤
解説: 茶臼山は火山灰土の台地のため、石垣が特に高く・堅固に築かれており、西南戦争や地震でも堅牢さを示しました。2016年の熊本地震では石垣の一部が崩落しましたが、修復が進められています。
解説: 茶臼山は火山灰土の台地のため、石垣が特に高く・堅固に築かれており、西南戦争や地震でも堅牢さを示しました。2016年の熊本地震では石垣の一部が崩落しましたが、修復が進められています。
16. 熊本城には建物以外にも約120もの何が設置されているでしょうか?
- 落とし穴
- 井戸
- 天水桶
答え:2. 井戸
解説: 篭城戦への備えとして、清正は城内各所に多くの井戸を掘りました。西南戦争でも水が潤沢に確保でき、籠城を支えた要因です。
解説: 篭城戦への備えとして、清正は城内各所に多くの井戸を掘りました。西南戦争でも水が潤沢に確保でき、籠城を支えた要因です。
17. 熊本城の「本丸御殿」はいつ復元されたでしょうか?
- 江戸時代からそのまま現存
- 西南戦争直後
- 2008年(平成20年)頃に主要部分が木造復元
答え:3. 2008年(平成20年)頃に主要部分が木造復元
解説: 2008年に行われた築城400年記念事業として、本丸御殿の大広間などが伝統工法により木造復元され、見どころとなっています。
解説: 2008年に行われた築城400年記念事業として、本丸御殿の大広間などが伝統工法により木造復元され、見どころとなっています。
18. 熊本城の「武者返し」は他にどのような呼び名で呼ばれる石垣でしょうか?
- 岡崎式石垣
- 清正流石垣
- イタリアン石垣
答え:2. 清正流石垣
解説: 「清正流石垣」とも呼ばれ、加藤清正が築いた城に特徴的な反り返った石垣です。よじ登るのが困難で、篭城戦に効果的でした。
解説: 「清正流石垣」とも呼ばれ、加藤清正が築いた城に特徴的な反り返った石垣です。よじ登るのが困難で、篭城戦に効果的でした。
19. 熊本城が想定していた最大の“仮想敵”といわれる藩はどこでしょうか?
- 長州藩
- 薩摩藩
- 土佐藩
答え:2. 薩摩藩
解説: 江戸幕府が薩摩を九州で警戒していたため、熊本城は南側が特に強固に築かれています。西南戦争でその堅固さを証明しました。
解説: 江戸幕府が薩摩を九州で警戒していたため、熊本城は南側が特に強固に築かれています。西南戦争でその堅固さを証明しました。
20. 明治期に城の取り壊しが一度進められそうになったものの、最終的に破棄された理由は何でしょうか?
- 藩士たちの猛反対で中止
- 祭りの会場として利用できるから
- 観光資源として認知されていたから
答え:1. 藩士たちの猛反対で中止
解説: 熊本藩内には城を取り壊そうとする動きもありましたが、保守派などが強く反発し、最終的に廃城案は取り下げられました。
解説: 熊本藩内には城を取り壊そうとする動きもありましたが、保守派などが強く反発し、最終的に廃城案は取り下げられました。
21. 熊本城の天守と本丸御殿が焼失する前、西南戦争での籠城戦をどれほど耐えたでしょうか?
- すぐに陥落した
- 2~3日ほどで籠城を諦めた
- 約50日以上耐え、西郷軍は城に侵入できなかった
答え:3. 約50日以上耐え、西郷軍は城に侵入できなかった
解説: 薩軍は火砲を用いた激しい攻撃をしましたが、熊本城の圧倒的防御力と十分な備蓄により、ついに一度も侵入できず、籠城戦に敗れました。
解説: 薩軍は火砲を用いた激しい攻撃をしましたが、熊本城の圧倒的防御力と十分な備蓄により、ついに一度も侵入できず、籠城戦に敗れました。
22. 2016年4月の熊本地震で熊本城が大きく被災した際、特に注目された石垣の崩落にあった“奇跡の一本石垣”は何を支え続けたのでしょうか?
- 大天守
- 飯田丸五階櫓
- 西南戦争の砲台跡
答え:2. 飯田丸五階櫓
解説: 熊本地震で多くの石垣が崩落しましたが、“奇跡の一本石垣”と呼ばれる角石部分が飯田丸五階櫓を倒壊から支え続けたとして大きな話題になりました。
解説: 熊本地震で多くの石垣が崩落しましたが、“奇跡の一本石垣”と呼ばれる角石部分が飯田丸五階櫓を倒壊から支え続けたとして大きな話題になりました。
23. 熊本城の天守は1960年に再建されましたが、当初の建材と工法はどんな形を取ったでしょうか?
- 完全な木造復元
- 鉄骨鉄筋コンクリート造の外観復元
- ガラス張りの近代的天守
答え:2. 鉄骨鉄筋コンクリート造の外観復元
解説: 熊本市が主体となり、市民の寄付や国からの助成を得て再建。木造復元は当時の技術や予算、耐火・耐震規定などの制約で断念されました。
解説: 熊本市が主体となり、市民の寄付や国からの助成を得て再建。木造復元は当時の技術や予算、耐火・耐震規定などの制約で断念されました。
24. 熊本城で特に有名な三重櫓(さんじゅうやぐら)で“第三の天守”とも呼ばれるのはどれでしょうか?
- 宇土櫓
- 長塀
- 戌亥櫓
答え:1. 宇土櫓
解説: 3重5階の規模を持ち、天守に匹敵する大きさから「第三の天守」とも呼ばれます。西南戦争の火災や熊本地震も耐え抜き、現存する貴重な建物です。
解説: 3重5階の規模を持ち、天守に匹敵する大きさから「第三の天守」とも呼ばれます。西南戦争の火災や熊本地震も耐え抜き、現存する貴重な建物です。
25. 熊本城の全面復旧を目指す工事は、2023年の発表でいつ頃までかかると見込まれていますか?
- 2025年には完全復旧
- 2030年頃までには終わる見通し
- 2052年頃までかかる見通し
答え:3. 2052年頃までかかる見通し
解説: 熊本地震で大規模な被害を受けた石垣・櫓などの修復が進行中で、当初より大幅に遅れ、2052年度までかかるとされています。
解説: 熊本地震で大規模な被害を受けた石垣・櫓などの修復が進行中で、当初より大幅に遅れ、2052年度までかかるとされています。
26. 熊本城の「清正流石垣」には、篭城戦を見越してどのような工夫が施されているでしょうか?
- 石垣に多数の狭間(さま)を設けて銃撃できる
- 石の中に米や干瓢を埋め込んで食糧庫にする
- 下部を緩やかに、上部を急角度にして登りにくくした
答え:3. 下部を緩やかに、上部を急角度にして登りにくくした
解説: 武者返しとも呼ばれるこの形状は、攻める敵が途中で足場を失い落下しやすい設計です。熊本城を象徴する築城技術の一つです。
解説: 武者返しとも呼ばれるこの形状は、攻める敵が途中で足場を失い落下しやすい設計です。熊本城を象徴する築城技術の一つです。
まとめ
これらのクイズを通して、熊本城の歴史・構造や地震被害からの復旧状況などを理解いただければ幸いです。
石垣の独特な反りや、清正の築城理念が示す籠城策、そして西南戦争の激戦の歴史など、多くの魅力やエピソードが詰まった名城です。
復旧工事が進む熊本城を、ぜひ応援しつつ見学してみてください。