「二条城」に関する3択クイズを27問ご用意しました。
各問の後に「答え」と「解説」を付けています。
二条城の歴史や特徴などを学ぶきっかけになれば幸いです。
1. 二条城の正しい読み方はどれでしょうか?
- にじゅうじょう
- にじょうじょう
- にじょうろう
答え:2. にじょうじょう
解説: 二条城は「にじょうじょう」と読みます。正式名称は「元離宮二条城」といい、京都市中京区に位置する城郭です。
解説: 二条城は「にじょうじょう」と読みます。正式名称は「元離宮二条城」といい、京都市中京区に位置する城郭です。
2. 二条城を英語で表記するとどうなるでしょうか?
- Nijo Castle
- Nijyo Castle
- Nizyojo
答え:1. Nijo Castle
解説: 海外向けの案内や看板では「Nijo Castle」と表記されることが一般的です。世界文化遺産に登録されているため、国際的にもよく知られています。
解説: 海外向けの案内や看板では「Nijo Castle」と表記されることが一般的です。世界文化遺産に登録されているため、国際的にもよく知られています。
3. 二条城がライトアップやイルミネーションを行う主な時期はいつが多いでしょうか?
- 年末年始だけ
- 春・秋など観光シーズン
- 常に毎日
答え:2. 春・秋など観光シーズン
解説: 二条城では桜や紅葉の時期など、季節ごとに夜間特別公開やライトアップ、イルミネーションイベントが行われます。歴史的建造物と光の演出が織りなす幻想的な雰囲気が人気です。
解説: 二条城では桜や紅葉の時期など、季節ごとに夜間特別公開やライトアップ、イルミネーションイベントが行われます。歴史的建造物と光の演出が織りなす幻想的な雰囲気が人気です。
4. 二条城において、幕末の歴史的大事件「大政奉還」が表明された場所はどこでしょうか?
- 本丸御殿の御書院
- 二の丸御殿の大広間(一の間)
- 城外の茶屋
答え:2. 二の丸御殿の大広間(一の間)
解説: 1867年(慶応3年)、15代将軍徳川慶喜は二の丸御殿の大広間(一の間)で大名たちを集め、幕府から朝廷へ政権を返上する大政奉還の意を表明しました。これにより江戸幕府は終焉を迎えます。
解説: 1867年(慶応3年)、15代将軍徳川慶喜は二の丸御殿の大広間(一の間)で大名たちを集め、幕府から朝廷へ政権を返上する大政奉還の意を表明しました。これにより江戸幕府は終焉を迎えます。
5. 二条城で定期的に行われる「イルミネーションイベント」の主な目的は何でしょうか?
- 城の防犯を強化するため
- 観光客誘致と夜間観覧の魅力向上のため
- 将軍家の子孫のお祝いのため
答え:2. 観光客誘致と夜間観覧の魅力向上のため
解説: 歴史的価値が高い二条城を、夜間にも楽しめるように企画されたライトアップやイルミネーションイベントは、国内外の観光客に好評で、京都の夜間観光の目玉となっています。
解説: 歴史的価値が高い二条城を、夜間にも楽しめるように企画されたライトアップやイルミネーションイベントは、国内外の観光客に好評で、京都の夜間観光の目玉となっています。
6. 二条城で販売されているお土産として、もっとも関連性が高いものはどれでしょうか?
- 二条城の天守閣で採れた蜂蜜
- 二条城障壁画をモチーフにしたグッズ
- 二条城跡の土を封入した容器
答え:2. 二条城障壁画をモチーフにしたグッズ
解説: 二の丸御殿などに描かれた狩野派の障壁画のデザインを用いたクリアファイルや絵はがき、手ぬぐいなどが人気です。歴史とアートを感じられるお土産として好まれています。
解説: 二の丸御殿などに描かれた狩野派の障壁画のデザインを用いたクリアファイルや絵はがき、手ぬぐいなどが人気です。歴史とアートを感じられるお土産として好まれています。
7. 二条城を最初に築いたのは誰でしょうか?
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 織田信長
答え:2. 徳川家康
解説: 1601年(慶長6年)、徳川家康が上洛時の宿所兼、朝廷の監視拠点として築城を命じ、西国大名の力を使った「天下普請」によって二条城が造られました。
解説: 1601年(慶長6年)、徳川家康が上洛時の宿所兼、朝廷の監視拠点として築城を命じ、西国大名の力を使った「天下普請」によって二条城が造られました。
8. 二条城がもともと建てられた目的として正しいものはどれでしょうか?
- 将軍が京都に滞在する際の宿泊・拠点とするため
- 天皇の避暑地とするため
- 全国の大名が力試しに造ったレジャー施設として
答え:1. 将軍が京都に滞在する際の宿泊・拠点とするため
解説: 二条城は徳川家康が征夷大将軍になるにあたって、京都御所を守護しつつ朝廷や豊臣家を意識した拠点とするために築かれました。
解説: 二条城は徳川家康が征夷大将軍になるにあたって、京都御所を守護しつつ朝廷や豊臣家を意識した拠点とするために築かれました。
9. 二条城の正式名称はどれでしょうか?
- 皇室二条城
- 御所二条城
- 元離宮二条城
答え:3. 元離宮二条城
解説: 明治時代に皇室の離宮となっていた経緯から、現在も正式名称は「元離宮二条城」と呼ばれています。
解説: 明治時代に皇室の離宮となっていた経緯から、現在も正式名称は「元離宮二条城」と呼ばれています。
10. 二条城の二の丸御殿は何として国宝に指定されているでしょうか?
- 城郭御殿の建築群
- 日本最古の木造5重塔
- 世界一大きな城門
答え:1. 城郭御殿の建築群
解説: 二の丸御殿は武家風書院造の代表例であり、城郭に現存する御殿として非常に貴重なことから国宝に指定されています。
解説: 二の丸御殿は武家風書院造の代表例であり、城郭に現存する御殿として非常に貴重なことから国宝に指定されています。
11. 二条城の建築様式として特徴的な「鶯張り(うぐいすばり)」とは何でしょうか?
- 廊下を歩くとキュッキュッと音がする仕組み
- 庭園に鶯を放し飼いする方法
- 軒先に鶯色の瓦を使う伝統工法
答え:1. 廊下を歩くとキュッキュッと音がする仕組み
解説: 侵入者に気付きやすいように、床板の下面に釘や金具を組み合わせて音が鳴るよう設計されています。二条城の二の丸御殿でも体験できます。
解説: 侵入者に気付きやすいように、床板の下面に釘や金具を組み合わせて音が鳴るよう設計されています。二条城の二の丸御殿でも体験できます。
12. 1626年(寛永3年)に二条城へ行幸した天皇は誰でしょうか?
- 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)
- 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
- 明正天皇(めいしょうてんのう)
答え:2. 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
解説: 徳川秀忠・家光父子が迎えた「寛永行幸」として知られています。この行幸に合わせて二条城の改修や拡張が行われました。
解説: 徳川秀忠・家光父子が迎えた「寛永行幸」として知られています。この行幸に合わせて二条城の改修や拡張が行われました。
13. 二条城の本丸御殿はもともと何を移築したものでしょうか?
- 伏見城の大広間
- 桂宮家の今出川屋敷
- 大坂城の本丸御殿
答え:2. 桂宮家の今出川屋敷
解説: 1788年の大火で本丸御殿を焼失した後、1894年(明治27年)頃に桂宮家の屋敷の主要部を移築したのが現在の本丸御殿です。
解説: 1788年の大火で本丸御殿を焼失した後、1894年(明治27年)頃に桂宮家の屋敷の主要部を移築したのが現在の本丸御殿です。
14. 二条城に現在「天守閣」が存在しない理由は何でしょうか?
- 建設当初から天守が計画されなかった
- 幕末の戦乱で破壊された
- 落雷と火災で焼失し再建されなかった
答え:3. 落雷と火災で焼失し再建されなかった
解説: 二条城にはかつて5層の天守がありましたが、1750年(寛延3年)の落雷による火災で焼失し、以後再建されないまま現在に至ります。
解説: 二条城にはかつて5層の天守がありましたが、1750年(寛延3年)の落雷による火災で焼失し、以後再建されないまま現在に至ります。
15. 二条城の「唐門(からもん)」に見られる特徴的な彫刻には、次のうちどれが含まれるでしょうか?
- シーサーやハイビスカスの彫刻
- 龍・虎・鳳凰・松竹梅などの吉祥モチーフ
- 東京スカイツリーの形をしたデザイン
答え:2. 龍・虎・鳳凰・松竹梅などの吉祥モチーフ
解説: 唐門には色鮮やかな彫刻がほどこされ、霊獣や縁起の良い動植物が細かく刻まれています。徳川家の象徴・葵紋も隠されており、見どころ満載です。
解説: 唐門には色鮮やかな彫刻がほどこされ、霊獣や縁起の良い動植物が細かく刻まれています。徳川家の象徴・葵紋も隠されており、見どころ満載です。
16. 二条城の二の丸庭園は誰の作庭によると伝わっているでしょうか?
- 小堀遠州(こぼり えんしゅう)
- 千利休(せんのりきゅう)
- 伊達政宗(だてまさむね)
答え:1. 小堀遠州(こぼり えんしゅう)
解説: 二条城の二の丸庭園は小堀遠州が基本設計をしたとされ、池泉回遊式で蓬莱思想を取り入れた典型的な大名庭園の一つとされています。
解説: 二条城の二の丸庭園は小堀遠州が基本設計をしたとされ、池泉回遊式で蓬莱思想を取り入れた典型的な大名庭園の一つとされています。
17. 幕末、二条城で将軍職に就いた最後の人物は誰でしょうか?
- 徳川慶勝(とくがわよしかつ)
- 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
- 徳川家達(とくがわいえさと)
答え:2. 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
解説: 徳川慶喜は二条城で15代将軍に就任し、その後、大政奉還を二の丸御殿で表明したことにより江戸幕府は終焉を迎えました。
解説: 徳川慶喜は二条城で15代将軍に就任し、その後、大政奉還を二の丸御殿で表明したことにより江戸幕府は終焉を迎えました。
18. 二条城が「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されたのはいつでしょうか?
- 1952年(昭和27年)
- 1975年(昭和50年)
- 1994年(平成6年)
答え:3. 1994年(平成6年)
解説: 「古都京都の文化財」は、清水寺や上賀茂神社、本願寺などとともに世界文化遺産に登録されました。二条城もその構成資産の一つです。
解説: 「古都京都の文化財」は、清水寺や上賀茂神社、本願寺などとともに世界文化遺産に登録されました。二条城もその構成資産の一つです。
19. 二条城の南門はどのようにしてつくられたものでしょうか?
- 築城当初から存在していた
- 大正天皇の即位の礼に合わせて新設された
- 豊臣秀頼が寄贈した門を移築した
答え:2. 大正天皇の即位の礼に合わせて新設された
解説: 1915年(大正4年)の大正天皇即位に伴う儀式で使用するため、二条城の南門が新設されました。現在も正門の一つとして存在します。
解説: 1915年(大正4年)の大正天皇即位に伴う儀式で使用するため、二条城の南門が新設されました。現在も正門の一つとして存在します。
20. 二条城の外堀や石垣に残る「刻印(こくいん)」は何を示すものでしょうか?
- 幕府が定めた運上税のシンボル
- 普請(工事)を担当した大名の目印
- 城の境界線を明示するための標識
答え:2. 普請(工事)を担当した大名の目印
解説: 天下普請として西国大名が築城に動員された際、それぞれが責任を持つ工区に自家の紋や印を刻印していました。外堀の一部にこれらを確認できます。
解説: 天下普請として西国大名が築城に動員された際、それぞれが責任を持つ工区に自家の紋や印を刻印していました。外堀の一部にこれらを確認できます。
21. 二条城の廊下がわずかに斜めになっている理由で一般的に考えられているものはどれでしょうか?
- 敵が一直線に攻めてこられないようにするため
- 地磁気の影響や測量誤差により3度ほど北がずれているため
- 宴会や能舞台に適した傾斜をつけるため
答え:2. 地磁気の影響や測量誤差により3度ほど北がずれているため
解説: 二条城全体が真北に対して3度ほど東へ傾いているといわれ、設計時の磁石の誤差などが原因だと考えられています。街中にある城ならではの特徴です。
解説: 二条城全体が真北に対して3度ほど東へ傾いているといわれ、設計時の磁石の誤差などが原因だと考えられています。街中にある城ならではの特徴です。
22. 二条城の本丸庭園はどのような特徴を持つ庭園でしょうか?
- 洋風バラ園
- 枯山水を大規模に再現した庭園
- 芝庭と築山を組み合わせた洋風テイストの庭
答え:3. 芝庭と築山を組み合わせた洋風テイストの庭
解説: 1895年(明治28年)頃、明治天皇の行幸を受けて芝庭風の洋風要素を取り入れた築山式庭園に改造されました。和洋折衷の独特な趣があります。
解説: 1895年(明治28年)頃、明治天皇の行幸を受けて芝庭風の洋風要素を取り入れた築山式庭園に改造されました。和洋折衷の独特な趣があります。
23. 二条城の清流園はどのような庭園でしょうか?
- 完全な枯山水様式のみ
- 和風と洋風の要素を組み合わせた和洋折衷の庭園
- 四季折々の花だけ植えられた花畑
答え:2. 和風と洋風の要素を組み合わせた和洋折衷の庭園
解説: 清流園は1965年(昭和40年)に作庭され、半分は池泉回遊式の和風庭園、半分は芝生を主体にした洋風庭園という珍しい構成になっています。
解説: 清流園は1965年(昭和40年)に作庭され、半分は池泉回遊式の和風庭園、半分は芝生を主体にした洋風庭園という珍しい構成になっています。
24. 二条城の東大手門は一時的に一階建て(平屋)になったとされますが、その理由として適切なのはどれでしょうか?
- 天皇の行幸で見下ろす形を避けるため
- 地震の被害で上層部分が崩れ落ちたため
- 幕末に防衛意識がなくなったため
答え:1. 天皇の行幸で見下ろす形を避けるため
解説: 1626年の後水尾天皇行幸時、「天皇を上から見下ろすのは畏れ多い」として二層の門を一時的に平屋に改築したと伝えられています。
解説: 1626年の後水尾天皇行幸時、「天皇を上から見下ろすのは畏れ多い」として二層の門を一時的に平屋に改築したと伝えられています。
25. 二条城で見られる石垣の積み方として主流なのはどれでしょうか?
- 乱積み(らんづみ)
- 打込み接(うちこみはぎ)
- 相方積み(あいかたづみ)
答え:2. 打込み接(うちこみはぎ)
解説: 二条城の石垣には「打込み接」技法が多用されています。自然石をやや整形しながら隙間を減らす工法で、当時としては強度が高い積み方でした。
解説: 二条城の石垣には「打込み接」技法が多用されています。自然石をやや整形しながら隙間を減らす工法で、当時としては強度が高い積み方でした。
26. 二条城に残る隅櫓(すみやぐら)はどれとどれでしょうか?
- 北東隅櫓と北西隅櫓
- 東南隅櫓と西南隅櫓
- 南東隅櫓と南西隅櫓は現存しない
答え:2. 東南隅櫓と西南隅櫓
解説: 大火や落雷などで多くの櫓が失われましたが、二条城には東南隅櫓と西南隅櫓が現存しています。いずれも重要文化財に指定されています。
解説: 大火や落雷などで多くの櫓が失われましたが、二条城には東南隅櫓と西南隅櫓が現存しています。いずれも重要文化財に指定されています。
27. 二条城の二の丸御殿 大広間(一の間)で将軍が座っていた場所はどこでしょうか?
- 上段の間(かみだんのま)
- 座敷の床下
- 廊下の奥
答え:1. 上段の間(かみだんのま)
解説: 大広間では畳が一段高くなった上段の間が最も格式が高い場所とされ、将軍がそこに座り、大名が下段に控える形で公式対面が行われました。
解説: 大広間では畳が一段高くなった上段の間が最も格式が高い場所とされ、将軍がそこに座り、大名が下段に控える形で公式対面が行われました。
まとめ
これらのクイズを通じて、二条城の成り立ちや歴史的役割、文化的価値などを改めて学んでいただければ幸いです。
実際に訪れる際は、豪華絢爛な二の丸御殿や美しい庭園をはじめ、幕末の激動の舞台となった数々の遺構をぜひじっくりとご覧ください。